府中市美術館のことを初めて認識したのは大学の講義中だったと思う。好感を持っていた先生が、国内の優れた美術館として横須賀美術館と一緒に名前を挙げていた記憶がある。その時期は諏訪敦「眼窩裏の火事」が開催されていて、キャンパスの敷地内に告知の看板も立てられていたが、見に行くことはなかった。
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正午すぎに府中駅で降り、ひとまず喫茶店「シャガァル」を目指したものの、蔦で覆われた建物の入り口はシャッターが下りていた。閉業したのかと思ったが、シャッターに張り紙はなく、インターネットには昨年の秋ごろに来店したひとの投稿も見られた。不定の休業日に運悪く当たったらしい。代わりに、近くの「コパデカフェ」でコーヒーを飲み、ホットサンドを食べた。シャガァルに後ろ髪を引かれてはいたが、こちらもいい雰囲気の店だった。調べたところ、1979年の創業だという。同じ場所で時間を重ねている店には、それだけを理由にして訪れる価値があるのだと最近は思う。
美術館へと向かう道中には公園がいくつもあった。駅から離れるにつれて商業施設が減り、住宅が増えていく。珍しくない郊外の街並みだが、この頃はコピー&ペーストを繰り返したような建物が延々と並んでいる奇妙な街から、歩いても歩いてもひとの気配や思惑から逃れられない東京の中心地へと働きに出る生活をしているから、その平凡さに安心感を覚えた。目的の美術館も、大きな公園のなかにあった。丘の上に白い凧が揚がっていたが、糸を持つひとの姿は見えなかった。
小西真奈の個展「Wherever」は、明度の高い色とラフな筆致が特徴的な20年代の作品から、鉛筆によるドローイングの小品を挟んで、キャリア初期の大作へと遡る展示だった。その順番は、対象に興味を持ったあと分析のために辿りたい道筋と一致しており、流れに沿って鑑賞すれば、必然的にひとりの作家の試みを知れた。
西東京の郊外の風景が描かれた近年の作品群を、同じエリアの展示会場で観る。微笑ましいモチーフの選択や、作家の運動を感じられる筆遣いにロケーションの符合も重なって親しみを覚える。しかしその感覚は、強く自立した初期の作品を観ることで宙吊りになった。
衣服の色が、自然との距離を測っているように見えた。《冬の水》の手前で湖を覗く、水と同じ色のジャケットを着た人物と、それを遠くで眺める黄緑色のアウターを着た人物。《キンカザン1》の開放的な画面でピンクのTシャツを着ていた人物は、幽玄な空気が漂う《キンカザン2》
では白い羽織を纏い、霧っぽい山の中の奥を見詰めている。精緻な風景画だが、彼岸の気配を感じられるのが好みだった。
常設展を観たあと、図書室を覗いてから建物を出た。常設では宇佐美圭司の《円錐形の内に居ますか、円錐形の内にいます》が特に面白く、ベンチに座ってぼんやり眺めていた。単純に脚が疲れていたのもある。人間の心身は、いちにちに何百もの美術作品を観るようにはできていないと大きな展示へ行くたびに思う。けれど、その疲労感も休日らしい。日中よりも一段と冷えた夕方の街を歩き、寿司を食べて帰った。